盛岡秋祭り山車さんからです。

盛岡秋祭り山車さんからです。山車の「寄付」に関するお話しです。


【ぜひ、拡散してください】
今年も掲載します!
平成29年度 盛岡秋まつり山車まで、
あと「3」日-。
祭りムードで盛り上がってきているところですが、
そんな、盛岡の方々にぜひ、
知っていただきたいことがあります。
盛岡山車の話題になるとよく聞くのが、
「祭りの期間、金集めに来るんだよね~。」とか、
「寄付もらいに来るのが嫌なんだよね~。」という声。
中には、「寄付した金が宴会に消えるのは癪だ」という声も。
これを読まれた方の中にも、居留守を使った方や、
こういう感覚分かるなぁという方もおそらくいらっしゃるのでは?
確かに、現代社会の人の繋がりを考えれば、そういう感覚を持つ方が圧倒的大多数ではないかと私も思います。
今日は、そんな山車の「寄付」のお話を書こうと思います。
盛岡山車は、305年前の宝永6年(1709年)、当時の盛岡城下23町の町民が、江戸の山車に倣って作った山車を曳き出し、始まったお祭りです。
当時は、南部藩主から各町の自警組織である火消に対しての庇護はあったものの、基本的な山車の製作資金は、それぞれの町に住む町民が捻出したものだったようです。
各町がこぞって、殿様の目を惹きたいと、山車の派手さや規模を大きく、派手にしていた時代です。中には、その年の「年収」を全てつぎ込む方もいたほど、だったとか。
明治に入り、藩主の庇護がなくなると、山車の製作は100%、
盛岡の市民に拠るところとなりました。
厳密に、「寄付」の最初は、おそらく山車組の地元の町内で、
山車出場に対する寄付を募り、それを元手に次回の山車製作を行ったり、火消道具・防火用具の設備投資等を行っていたところから、
始まったのではないかと思われます。
それを裏付けるのは、盛岡の文化は、「長屋」の文化ということ。
今も紺屋町や、鉈屋町、清水町の一角に残る「長屋」。
「長屋」の付き合いは、助け合いの精神によるものといわれますが、まさにそんな長屋の町だった盛岡だからこそ、「寄付」をして、
お礼に山車の絵である「番付」を配る風習になったのではないでしょうか?
火消といえども、平時は普通の町民です。
いざというときに備えられるよう、
「寄付」は町内の火消組に蓄えられ、
そして有事の際、惜しげもなく使われます。
それこそが、盛岡山車の「寄付」の謂れなのです。
ー 盛岡秋まつり山車は、盛岡市民全員のもの。 ―
山車を作った作り手、囃し方、曳き手だけのものではなく、
各参加組だけのものでもない、見に来る人もすべて、
盛岡秋まつり山車という「祭り」の作り手なのです。
そんな謂れですから、「寄付」という山車の風習を、
ぜひ、やる側も、見る側も関係なく皆様にお考えいただければ嬉しく思います。
※2016年追記
盛岡市内も、各所で再開発が行われ、集合住宅やマンションが増えてきました。かつての町会や「町」という単位から変わってきている中で、寄付の貰い方や「誰に頂くのか?」という点も、考えなければならないのかもしれません。
人口減少社会が首都圏に先駆けて地方を直撃し始めている今、
若い担い手がどうすれば増えるのか、どのようにまちを巻き込んで、みんなでつくる「盛岡のお祭り」という形を復権できるか、
それは、やはり現在山車を担っている全ての人と、盛岡に住む、
全ての人に掛かっているといっても過言では有りません。
そして、山車に”加担る”側の、寄付を貰う姿勢一つでも
この意識はきっと変わります。
ぜひ、各団体にて、本隊付きの方もさることながら、
支隊で寄付を貰う方々にも、そういう心構えをお伝え頂けないものでしょうか?
詭弁と言われるかもしれないですが、心持ち一つで態度は変わりますし、臨む姿勢が変わってくると思うんです。
盛岡の祭りなんだから、盛岡の人が胸を張って、
世界に「これが盛岡の祭りだ!」
と誇れる祭りにしたくありませんか?
さぁ、あと3日。
今年は、8月から岩手県内各地でも長雨が続き、
たびたび、消防団の方も緊急体制で大変緊張が続いておりました。
消防のみなさんにとっては、そういった背景の中ながら、山車の製作・準備も並行して進められてきたので大変ご苦労が続いていると思いますが、もうひと踏ん張り、ぜひ良いお祭りになるように、頑張って頂きたいです!
祭典期間中は、どうか八幡様のご加護で、
お天気が持ちこたえてくれることを願ってやみません。