盛岡秋祭り山車さんからの情報です。

盛岡秋祭り山車さんからの情報です。気が付けばもう来週は秋祭りですね。楽しみです。こちらのFBページをチェックするとより山車の風流な世界を堪能できます!
シェアの文章は馬町、一番組さんのご紹介の文章です。

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【盛岡山車 参加団体&演題紹介】
ー第3夜ー  
盛岡市消防第3分団 肴町(旧馬町) 一番組
※ルール
この記事では、
各団体が同じ演題を過去に出したことがある場合、当時の番付を掲載します。
また、過去に出したことが無い場合には、直近のその演題が出た時の番付を掲載します。
全く新しい演題を発表した場合には、その演題にまつわる写真や画像を掲載します。
例年に倣い、このご紹介は毎日1団体を、9月14日の神輿渡御(八幡下り) の順番で
行わせて頂きます。
連日更新、盛岡山車の
本年度の参加団体と演題のご紹介コーナー、
本日は第3夜、
肴町(旧馬町) 一番組さんをご紹介いたします。
一番組さんは3分団として肴町(旧馬町)を拠点に活動、
盛岡の火消組で最も歴史のある消防組です。
その歴史は、天明3年(1783年)6月、
盛岡に永住した加賀藩出身の鳶・伝之丞、惣八が
南部藩第35代利正公の命によって組織したことに始まり、
以降、藩お抱えの「御用火消」として消防の任に当たったことに始まります。
当時は、「いろは組」を称した。
明治9年(1876年)、6月23日に「いろは組」から「一番組」に改称を許され、
明治13年(1880年)には、油町 二番組、長町 三番組と共に、
岩手県の御用鳶に指定されました。
明治23年(1890年)、盛岡市の消防区域として大区制が敷かれ、
一番組は盛岡市第3区として馬町、十三日町等杜陵地区界隈の統括組織となります。
そして、4年後の明治27年(1894年)には、盛岡消防組第2部に編成された後、
昭和14年(1939年)の警防団組成の際に盛岡市警防団第3分団に編成され、
戦後、これを継承する形で盛岡市消防第3分団として現在に至っております。

纏は城内本丸の火災のとき、抜群の働きをした功績に対して、
南部藩士より払い下げをうけた馬印を引き継ぐもので、
現在も当時と同じ形の纏を継承しております。

一番組さんは、平成25年以来3年ぶりの奉納ということで、
本年の演題には、
風流  朝比奈三郎義秀
見返し 花咲爺
を飾ります。
風流は、「朝比奈三郎義秀」。
一番組さんにとっては、昭和59年(1984年)以来、
実に32年ぶりの演題です。
時は鎌倉時代初期。
鎌倉幕府は、二代将軍頼家の死後、三代実朝が幼くして将軍職に就き、
初代頼朝の妻・北条政子や二代執権の北条義時を中心に、北条家が執権として発言力を強め、
さらに、頼朝の死後度々勃発した梶原景時、比企能員、畠山重忠ら有力な御家人たちが争い
滅んだこともあり、ますます支配を強めたのでありました。
そんな中、鎌倉幕府設立の最大の功労者の一人である侍所別当の和田義盛は、
北条家打倒の動きが有るという疑いにより、親族が罰せられ、その後の幾たびの
挑発と積年くすぶり続けた不信により、北条義時に対し挙兵。
いわゆる「和田合戦」がこれにより勃発したのです。
この和田合戦において、 義盛の軍勢の中で最も奮戦したのが、
義盛の子・朝比奈三郎義秀でした。
自慢の怪力で、惣門の石畳を担ぐと門に投げつけこれを打ち破り、
御所の南庭に進出すると、北条方の御家人たちを次々と撃破、
北条方に加わった従兄弟の高井重茂とも一騎打ちで打ち倒すと、
大将の北条義時にも怪我を負わせる等、「神の如き壮力をあらわし、
敵する者は死することを免れず」と称賛される活躍ぶりだったようです。
戦には敗れたものの、所領の安房国に逃れた後、
その後処罰の記録等は無く、様々な地に伝説が残る武将として伝わっております。
本年の山車には、盛岡山車では伝統的なこの石畳を投げつける
「惣門破り」の豪快な姿を飾ります。
惣門に刺さる石畳と、投げつけた豪快な姿は必見です!
見返しには、おとぎ話の「花咲爺」を飾り、
桜満開の華やかな見返しを演出します。
盛岡秋まつり山車まで、
あと、「12」日ー。
明日は、第4夜。
「盛岡市消防第15分団  厨川 や組」
をご紹介します。